人の心は美しいものであって欲しい。
見た目とかうわべだけとか・・そんな作りものじゃなくて、心底、美しいものを求めている。
心の綺麗な人に舞台を務めて欲しいと思うから、心も美しく保ち、育て続けて欲しい。
舞台は芸術であるとこだわりたい。
私の中で芸術は、「人を無条件に感動させるもの」の部類に入る。
舞台という真摯な(?)芸術をお金の力とか権力だけで手に入れようとする傲慢な考え方は醜いとおもう。一部の人の間違った行動を傍から見かけて、そんな感 じを受けることがシバシバあったから・・。お金や権力の大きな作用を受けていたら、それは興ざめで、感動など起こりもしない。とたんに舞台そのものが芸術 の分野から離れていってしまうような気がする。
お金がないから、舞台や稽古を極められない・・みたいなイジケタ考え方もまた美しくない。
何かを欲しいと思うなら、別な何かを我慢するのが道理だし、それでもお金が必要なら、自ら作り出すのが物事の筋だと思う。
人をうらやみ、ぼやいてばかりの心からは決して美しいものは生まれない。ただ惨めで情けない自分を作り出してしまうだけだ。
最も美しくない心は、何かにつけて人様と自分を比べることだと思う。
人をうらやむことも人を見下すことも、生きていくためになんら必要なものでもない。
誰かと比べるために、誰かに褒められるために、誰かに威張り散らすために稽古をやっているわけではないと思う。
もっと言ってしまえば、人はそうするために生きているわけではない。ならば、誰とも、何とも、比べる必要もない。
稽古は自分を深めるために、もっと高めるために行うものだと思う。
環境が悪い・・時に私には言い訳にしか聞こえない言葉である。自分のおかれる環境は自分自身で作りかえることも可能だと心得ている。上手くいかないことを周りのせいにする前に、上手くいくように努力する自分を作り出せて、初めて何かを求める領域に達するのだと思う。
何かをするときに「見返り」を漠然と思い浮かべるありかたも、淋しいだけのような気がする。
「見返り」を期待したとたんに、多くの貴重な経験は、純粋な経験ではなくなってしまうのではなかろうか。
経験は純粋だからこそ、意味をなすと私は思っている。夢をもって頑張ることと、「見返り」を期待することは、大きく何かが違う。
満たされた時代に生きて、意識のどこかで何かを求めているのに、与えられることを待っている人々。
与えられたものは、すぐになくしてしまうのに・・・。
求めるものをお金や権力だけで手に入れようとする合理的な人々。
心の伴わない合理的なあり方がいつしか虚しさを生み出すこともあるのに・・・。
舞台は芸術であるとこだわりたい。例え町中のカルチャーで出会っても・・・。
単に習い事として考えるのではなくて、あくまでも常に謙虚に芸術という教養を身につけている意識をもっていて欲しい。
そうすれば癒されている自分に気がつくのだと思う。
そして伝える側の私達も、常に謙虚に求められるに価する努力を続けなければならない。
そうすれば、伝えながらも、私達もまた成長することが出来るかもしれない。
理想だと笑われるかもしれないけれど、
おごらず、妬まず、ひがまず、謙虚に舞台や稽古に向き合う人が一人でも多くなることを切に願っている。
「感動」に惹かれる人の心はきっと美しい。
だから、その美しい心を保つために、もっと美しい心を育てるために、純粋に舞台や稽古に向き合って欲しい。
私は「あーと」に舞台を愛する人誰もが望む理想の空間を作りたい。
その空間から生まれる最高の舞台で、人々の心を癒したい。
ユメユメしいと笑ってください(苦笑)。
おバカで単純で猪突猛進型の私だから、いつか出来ると信じて、やっていけるような気がしているのです(爆)。
By川留