ワクイな?話・・。
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「へっ?」「はっ?」「えっ?」「・・・」「ぎゃ~~~~~!!」(10/20)
時は2003年10月18日、指宿市民会館ホール。。。バリバリな晴天。海も青く寄せる波も雄大で海に面した会館はいい事が起こりそうな雰囲気に包まれていた。本日はあーと創立以来の大仕事、県民文化祭の本番の日である・・・。
リムジンバスに乗られた連絡を受けて、涌井先生のお迎えに急遽任命されたOさんとTさん。
指宿駅から会館まで車でお連れする重要任務だ。
涌井先生は「あーと」の皆にとっても本当に神様なので、それぞれがお傍にいるだけで大変な緊張モードに陥る。
お迎え用の大きな車を黒服軍団が用意してくれていたらしいのだけど、土曜のラッシュにはまってしまって急遽現場にいたお二人にお願いすることになった。心中お察し申し上げます。
全員でホール入り口にお出迎えの体制になりご到着をまった。いつも思うけどデパートの開店時間みたいだ(^^;。「なにごとだろう??」市役所や県庁の職員の皆さんが不信そうに見つめていた。
そろりそろりと会館に向かって慎重に走ってくる車。ハンドルを握る手は汗ばんでいるのだろう。
にこやかに華やかに先生が降りてみえた。ワクイな(?)ダンサーの皆さんも続いて降りてみえた。
「あーと」なメンバーたちは久しぶりの涌井先生のご来鹿にニコニコというかニヤニヤというかつまり顔が緩んでいた・・・(^^;。とても幸せな癒される空気を感じていたに違いない。
この幸せなお出迎えから数分後、いきなり私は↑(タイトル)の状況に陥ったのだ。出演者に対してはあれほど、「全てのことが変化すると心しておけ」だの「その全てに即座に対応せえ!」だのわめいておいて、一番心の準備が足りなかったのは私だった(爆)。
下手側の「ワクイなダンサーの皆さん」と上手側の「あーと」な出演者の振りが違って、見ている私は慌てふためいたという具合だ(苦笑)。
「ビデオ~~~!」と叫びながらビデオを片手に生きているコンセントを探しまくった。いたるところに差し込んでみたが皆死んでる・・・・(涙)。「なんで充電してないんだぁ~~~!」客席最後部に陣取っていた音響さんが私のあわてブリに電源を提供してくださった。しょっぱなから「あーと」名物お騒がせオバサンぶりを今回も披露してしまった。舞台スタッフの皆さんはそんな私にすっかりなれてどこかでその光景を楽しんでいらっしゃるようなのでヨシとしよう(苦笑)。
後に聞いてみたら、あーとな(?)出演者は振り付けが変わったことを舞台上で、ワクイな(?)ダンサーの皆さんから聞いていたらしい(^^;。
客席でパニックに陥っている私には、もう全ての振りがまったく違うように見えた。冷静に見てみたら、なんのこたぁ~ない・・・ダンサーの技術レベルが違うから違うものに見えたのだ(涙)。。。。
ホールでの残された時間は1時間あまり、他の団体のリハーサルも組み込まれているので、わがままはいえない。
けれど、ホールでの様子にたったの1時間では決着がつきそうにない。私も舞台の神様もその件に関してはすっかり予想済みで、練習とまで行かなくても立ち居地や動きの整理ナリとも出来そうな広めの会議室を用意していた。
床はコンクリートだ。ワクイのダンサーの皆さんもいらっしゃるから、まさか踊ることはされないだろう・・と思っていたのが甘かった。「滑ったら危ないから、裸足になってやりなさい」。・・・。ウチはともかくこんな条件の悪い床でワクイのダンサーの皆さんが本気モードで踊るのにビックリこいた!
時間を追うごとに作品が変化してくる。振り付けも当然のようにどんどん変わる。あーとなメンバーはついていくのに必死だけど、作品が「生き物」になってきた。ぶっちゃけた話、昨日の作品とはもう全然違った。
神様はやっぱり神様で神様の一言一言にそれぞれが対応しようとする。出来る出来ないは別にして、強制しているという威圧的な雰囲気もなく実に自然にそうさせてしまうのは神様にしか出来ない技(?)だ。
全てのことに根拠があって全てのことが例え素人が見たにしても正当なものだからストレートに人の心に響くのだろうと思う。神様の前ではどんな人でも素直(?)になってしまうのだ。毎回・・・すげえ~~~に尽きる瞬間。
この日のレッスン時間・・・トータル5時間。。。ワクイのダンサーの皆さんにひたすら申し訳なかった。。
お付き合いくださったことに心から感謝申し上げます。
翌日・・不器用な「あーと」な面々はまるでコンクールの朝のように早朝から私の止まっていた宿に集合して仕込みに入る。ゲネプロの時間は10:00時。指宿までわざわざ来ていただいたのに、ユックリ出来る時間がなくて申し訳なく思っていた。本番は早めに終わるはずだから、終わったら砂蒸しやら温泉を楽しんでいただこうと、黒服軍団と相談をしていた。ゲネは無事(?)に1時間で終了し、本番までしばらくの時間ができた。出演者の様子を楽屋に見に行ってホールに帰ってみたら、涌井先生が消えていた。
「ありゃ??」と、きょろきょろしていたら、黒服軍団のイチミが「あのね、内緒なんですけど、先生、温泉にいかれました♪」「・・・・」。なんて素早い!ほんのさっきまで客席で舞台の神様とお話していたのに・・・。
先生を温泉までご案内してきた黒服軍団のイチミがかえってきて、にこにこしながら言った。
「社長、先生お家が欲しいなぁ~♪っておっしゃってました」ふたたび「・・・・」。
神様はすぐに気に入った場所にお家を欲しがるかたで、「空家」をみつけると異常な反応をされる。そしてとてもキュートにおっしゃる「住もうかなっ♪(^^」
ずーっと前に突然電話があって「鹿児島に売り家があるんだけど、そこからレッスン場まで遠い??地図で見たらちかいのよ」と霧島近くの住所をおっしゃったことがある。「先生!う~~~~んと、遠いです」。「あら、そ~なん?やっと見つけたのに・・・」。そうおっしゃられても・・・(^^;。
話を戻して本番(汗)。振り付けが変わったことには何とか対応できたものの、やはり前日問題になったところで
ごたついてしまった(冷汗)。それでも私は始めたばかりの間もない出演者に拍手をおくりたい。大きなプレッシャーと戦いながら、なれぬ舞台の世界で神様のお言葉どおりに何とかしようとしたのだから・・・。
思うように踊れなかったストレスは計り知れないが、無心に続けているうちにきっと違う自分に出会えるのだと思う。それぞれの失敗に落ち込んでいる一人一人を見ながら、これからも自分に出来る最大の援護をしていきたいと切に思った。失敗したことに大いに落ち込んで、次の機会には対応できる自分を探し始めて欲しい。
会場の中には生まれて初めて「バレエ」を見る人もいらしたに違いない。ただ呆然とステージを見つめる1100名のお客様が印象的だった。指宿の皆さんはもう絶対に大阪に足を向けて寝てはいけない!
最終のリムジンバスで空港に向かわれる神様ご一行様を送る時間になり、私のチビ車に先生に乗っていただいた。
バス停までの道のり、先生はしっかり「空家」らしき家をチェックしている。・・・。
バス停について、ワクイのダンサーの皆さんとちょっとだけユックリお話しする機会に恵まれて、ようやく今回のお礼を申し上げることが出来た。「ん?」と思ったら先生がいらっしゃらない。今の今まで付近を散策していらしたのに・・・。すると駅の中から、なんとも嬉しそうに一枚の紙をひらひら~とさせながら出てみえた。
「もしや・・・(冷汗)」。そう・・・、書かれていたのは指宿の不動産屋さんの電話番号だった。
「住もうかなッ♪」やっぱりそうおっしゃった☆
ワクイのダンサーの皆さんがいらっしゃることをすっかり忘れて「是非!」といってしまった(再び・・・汗)。
もうすでに不動産屋さんへ大阪から元気な電話が入っているかもしれない・・・。
「蛇口ひねったら、温泉の出るお家、1軒くださいな♪」。
あまりなキュートなノリに、田舎の不動産屋が冷やかしと勘違いして無礼を働かないことひたすらを祈るばかりである・・・。
16年ぶりの積雪の中・・
颯爽と現れた涌井センセ・・
涌井先生ご来鹿予定の前日から、鹿児島は変だった。何だか寒い・・と言うより冷たい。家路について「あ・・・」雪が降り出した。「・・うそ?・・」。
私には涌井先生を空港までお迎えに行くという重大な任務がある。こればかりは他の人には譲れない。人気者の涌井先生を唯一独り占めできる時間。1時間の道のりだけど楽しい話をたくさん聞かせていただける。
でも、外は雪・・私のチビ車じゃ、高速走行なんて無理だ。生粋の鹿児島県人の私はチェーンなんてもってない、スノータイヤ(?)なんか見たこともない。
積雪の中を車で走った経験なんかあるはずない。よって、前夜に涌井先生にファックスをしたためた。「涌井先生。事件です!雪が・・・で、お迎えに上がれないかもしれません。積雪の際は安全なバスでお越しいただくことになるかもしれません」・・・。プルルル、すぐに電話の音。当然、涌井先生。「明日は雪でもそうでなくても護送(涌井先生はチビ車での私の送迎をそう呼ぶ・・)は結構です。一人で勝手にバスでいきます。気持ちを安らかにお休みください・・・」永眠せよと仰せかと思うほど厳かに(?)おっしゃった。
で、当日、物凄い雪。外は白く降り続く雪はまだやみそうもない。おとなしくスタジオで待機することにした。高速道路は閉鎖との情報が入ったので涌井先生のスタジオ到着は当然遅れるものと・・お母さんたちと時間を過ごしていた(出演者はバーレッスン)。・・・ところが予定よりもはるかに早く、誰かの声が響いた「ワクイ先生 おつきです!!」そっくり返っていた私はおもむろに起立してお出迎えにはせ参じる。なんとお疲れの様子も全くなくお元気に、どことなく豪快に「おはよー!」「雪やね、凄いね、鹿児島でも降るんだわね!」
「大阪は降ってなかったのよ。鹿児島にこんなに振ることないでしょう?」
・・・間違いない・・先生は鹿児島の雪を楽しんでいらっしゃる。・・・。
涌井先生は、いろんなことに事細かに感動される方。鹿児島の雪を楽しまれないはずがない。道端に咲く花にも空の色にも山の表情にも畑にもお越しになる度に気づかれて私に質問されることが多い。ほとんど答えられないけれど・・(苦笑)。
翌日、ホールでの緊張のリハーサルのためにホテルにお迎えにうかがったときもそうだった。荷物だけがロビーにたたずんでいる。フロントの人に「先生は?」と尋ねたら人差し指を↑にした。「桜島を見に行かれたわよ・・7階まで」「あ・・・・」
ニコニコ降りて見えた先生は「すっごい綺麗よ。桜島!桜島の向こうに見えてる二つの山はなあに?なんかこんな形のが見えてるんやけど・・川留さんも行く?」そのまま再び7階へ。地図を広げて謎の山の名前を黙々と調べる私。雪の桜島にうっとりされる先生。
謎の山の名前は「韓国岳」と「高千穂の峰」と判明した。間にあるのが「霧島山」ホントかどうか分からないけど、地図にそー書いてあった(苦笑)。
先生とお付き合いさせていただくようになってから、私の1年のスケジュール帳は世界地図と日本地図が掲載されているものに決めている。鹿児島からめったに外に出ない私は世界はもとより日本の地理すらあやふやだ。だから先生のお話をキチント聞くために地図とにらめっこをしなくてはならない。
涌井先生の舞台には、深みがある。時代や環境が舞台の中に組み込まれているから・・。
全くバレエを知らない人も飽きずに楽しむことが出来る。私は先生のそんなバレエが大好きだ。理論ではなくて感覚でそれを捉えて、時代や環境を前提に命を吹き込む先生のバレエはやっぱり凄い。
余談だけど、空港への(護送?)の際も、やっぱり景色に見とれる涌井先生。
「川留さん!見て見て!こっちからの桜島も綺麗よ~」「先生、大変残念ですが、高速走行中ですのでわき見運転は出来ません」「あ・・そうねぇ。勝手にたのしむわ・・」(^^。
「あーと」での密かな噂(私が流しているんだけど・・爆)・・・。
鹿児島に16年ぶりに積雪をもたらしたのは、ウクライナ帰りの先生の影響だ。
勘違い?
ある朝の電話で、ことは発覚した。「おはようございます。涌井でございます」。電話の向こうでとても上品な癒し系の先生の声が穏やかに響く。「おはようございます」と答えながら、きっと今日は一日いい日になるのだと思う私。「一昨日の舞台どーやった?」先生はいつも私達のつたないイベントジャックのことを気にしてくださるのだ。(なんてありがたいことだろう)と幸せな気分。「○月○日の舞台ですね?なんとか・・・」というところで私の答えは中断された。「え?いつって?」「はい、○月○日に頴娃町の・・」そこで再び中断。「○月○日って、昨日の前の前やん! 会えないはずねえ。」そして先生は突然、笑い出した。しかもかなりな勢いで・・・。「あのぅ・・・」と言いながら、ハタと気がついた。血の気が引いていくのを感じながら、恐る恐る「え?会えないって?も、もしかして・・」ソコで三度私の言葉は中断。「そー行ったのよ。頴娃町まで。ワクちゃん(ワクちゃんは涌井先生のご主人様です)と。行ったら分かると思ってタクシーチャーターしてずーっと探してもらったのよ。あーと・かんぱにぃが頴娃町で踊ってるから、って言って・・。でも、探しても探しても見つからなかったのよ。あーそーなん?わたし日にち間違えてたんだわ。あーおかしい。見つけられないはずよねぇ」とおおらかに笑われる先生。ついに私は絶句してしまった。「内緒にしてびっくりさせようと思って行ったのよ。あーおかしい。」それでも先生は超明るい。あーーーーーどーしよう?○×?▽*□・・私は頭がくらくらしてしまった。でも、先生の笑いは止まらない。仮に当日お越しいただけたにしても「あーと・かんぱにぃ」が頴娃町でバレエ踊るから・・・でタクシーのうんちゃんに伝わるはずもない・・・。「あーと」は悲しいかな・・一般的知名度は低い(泣)。
「おかしくなーーーい!!(注:私の心の叫び)」。
恐るべし、涌井先生。しかもワクちゃんまで(^^;。ここは鹿児島、確か先生は大阪、当然ワクちゃんも大阪。常人が考えたら普通の距離じゃない。ビックリさせるためだけに、チャッチャと来鹿される先生は、どう考えても私たち凡人には理解不能だ。同じような先生のドッキリ作戦、一体もう何回目だろう???。
ある時期から、私は先生の謎の行動について、凡人の常識で理解しようという浅はかな思考回路を完全に撤廃した。理解しようなどと恐れ多いことをするから、私の頭は混乱するのだ、と気がついた。
カッコいいのも先生。優しいのも先生。お茶目なのも先生。お上品なのも先生。おもしろいのも先生。可愛いのも先生。そして何より超コワイのも先生。凡人には、想像も出来ない一点もの(?)・・・。
ゆえに予想不能=理解不能。私たち凡人にありがちな計算された人付き合いは絶対に通用しない。神のごとく偉大であってマリア様のように純真である。そう考えてみると、凡人の計算など恥ずかしい限りである。さらに、先生の生み出すバレエの凄さが理解できる。純真であることが先生のバレエの原点だと思い知った。以来、涌井先生に関する限り、私にとって最も不似合いな「純真な心」で対応している(^^;。バレエを習得しようとする「あーと」のメンバーに対しては、常に純真であることを訴えている。
そうして私の数少ない脳細胞のテンヤワンヤは治まり、先生に見捨てられることもなく、現在に至る。実にありがたい現実だ。ただ、いまだに後遺症は残っている。イベント舞台のたびに意味もなく、周囲を徘徊しキョロキョロしてしまう挙動不審な私が存在するノダ。
多分この症状は、生涯、治ることはない。・・・(^^;。
舞台、しよっ (10/12)
「川留さん、舞台しよっ。舞台は、やったらやった分、上手になるのよ。やっぱ舞台せなあかんと思うわ。」
突然、お言葉を頂戴したのは、1998年4月のことだ。「まだ会員も少ないですし、技術もありませんし・・」とのらりくらり、それでも私としては丁重にお断り申し上げた。「出演者、足りなかったら、ワクイの子 連れてくるわ。うん、そーしよ、舞台しましょ。」「・・・・。」
まさか実行されるなんて夢にも思っていなかった。しかもワクイの皆さんや鳥取の池澤先生の生徒さんまでご出演くださるなんて(ご来鹿下さった皆様方には、深く感謝しております)。
何度か辞退の意を表明するために電話も差し上げた。けれどソコは、根が単純な私、不覚にも涌井先生のペースに巻き込まれていってしまったのだ。「舞台をすると上手になる」という言葉は、当時の私にとってその気にさせる魔法の呪文のようなものだった。いつしか「そーですね!!先生お願いします。」といっていた(^^;。で、文頭のお言葉を頂戴してから1ヵ月後のゴールデンウィークには、生のワクイの生徒さんまでお越しになって振り付けが行われた次第です(^^;。
生で見るワクイの皆さんは、ビデオのそれより数段に上手い。思わず「何もんじゃ ーーー?」と叫んでしまうほど。「あーと」の若者たちが同じ舞台に立つことを極端に嫌がった理由が、そのときになってやっと分かった。時すでに遅し、もう引き返せるはずもない。若者たちやお母様方の恨みつらみを背後に感じながら、上演の運びとなった。
私たちが見るとプロ?と思うほどに、すっごいワクイバレエ団の皆さんなのに、先生は事細かく、開場ぎりぎりまで徹底的に指導される。突然振り付けや構成が変わることなど当たり前(?)らしい。先生の要求に遅れることなく小学生までしっかりついていく。夏場だったこともあり、トゥシューズの中でマメがつぶれて化膿してしまった小学生もいた。袖に引っ込むと痛さのあまりだろう、涙があふれている。「苦しそうに踊るんやったら、舞台に出なくてもいいのよ!」先生はそれでも厳しかった。「大丈夫?」私は、声をかけてしまった。袖にいたほかのワクイの皆さんが、「普通のことです。心配要りません」という。「普通??って・・・?」。そして先輩方がその子に声をかけた「踊りたいんやったら、しっかりし!」・・・・。
とんでもない世界に足を踏み入れた、と心臓がバクバクしたのを今でも忘れない。でも、先生はもちろん、彼女たちも 皆、限りなくかっこよかった。
涌井先生のおっしゃったことは、やっぱり本当だったのだ。「あーと」はこの舞台をきっかけに何かが変わることになった。ホンモノの芸術集団の舞台裏での努力を目の当たりにして、確かに何かが・・変化した。当然、私も(このとき、私の哲学?に「優しいことは優しくない」が加わることになる)。
涌井先生はこれからも、私の心臓が口から飛び出るような発言や提案をされるかもしれない。飛び出した心臓を飲み込みながら、先生のお導きについていきたいと思う。
「あーと」のメンバーがワクイの皆さんのように凛とした精神を持てるように。
レベル5(^^;。 (10/1)
「あーと」の厳戒態勢はレベル1から5段階、レベル5まで存在する。当然レベル5は本番直前の涌井先生のご来鹿時に通達される。今回はこのレベル5について書こうと思う。
レベル5。それは普通の社会生活を送っていては決して味わえない緊迫の時間帯である。小心者の私(?)など、いまだに前夜から眠れない。
いつもはマリア様のようにお優しい涌井先生が本番直前になると豹変されるのだ。
最も恐ろしいのは本番前日または直前のゲネで、いきなり「川留さん?どうしてもこの作品せんとあかんの?」と実にほんのりと、しかし瞳の中に絶対の何かをもって尋ねられることである。
このときの涌井先生は超コワイ。動かないからめったに汗をかかない私だけれど、瞬時に背中を一筋、いやーな汗が流れる。一世を風靡した「ああいえばジョウユウ」に匹敵するほど達者な口も、のどの奥が乾いて全く使い物にならない瞬間なのだ。
先生は開場ぎりぎりまで作品に進化を求める。手や足の運び方、首の角度、表現について、徹底的に直そうとされる。しかし!!、涌井先生の要求にそう簡単に応えられるものではない。進化の見られない状況が前述の恐ろしい発言につながるのである。
初めて言われたときは大いに困って、ただただ「やらせてください」とお願いすることしか出来なかった。「貴女が恥をかくのよ?」「構いません」。ピリピリとした神経の磨り減るやり取りだった。
あの日、私の寿命は絶対に縮んだと言っても過言ではない。私はこのレベル5を乗り切るためにこれまでにありとあらゆる作戦を立てて挑んだ。
作戦1、地元の舞台スタッフで、いつもいつもお世話になっている舞台監督の宮本さんと明かりの吉永さんと結託して、ゲネプロは先生がなんとおっしゃろうと音を止めない(涌井先生に考える隙を与えない)。
作戦2、私は先生の視界に入らない位置に避難する(先生が本音をおっしゃりにくいようにする)。
作戦3、危険が予想できる日の昼食は上寿司の出前を頼む(生ものなので時間を置けない)。
しかしながら上記の緻密(?)な作戦も全てからぶりに終わった。
作戦1は、ガナリを通して「音,止めて!!」と叫ばれて、音屋さんが条件反射で止めてしまった。
作戦2はタイムキーパーや先生のアシを務める当日の担当者に私を呼んでくるようにお達しが出て、失敗。
作戦3は、「ご飯なんか食べてる場合じゃないでしょ!!」の一言で逃げ出して・・・おわり。
緊迫した状況を迎えなかったのは、唯一、最近の「可能性の集い」である。別名「自己満足の会」と題した鹿児島では初のヴァリエーション大会だった。ゲネの時間、ずっと先生を背後から観察し、ヒートの予感がしたら、後ろから耳元でつぶやいてみた「先生、別名は自己満足の会でございます」、もしくは「ここはワクイではありません。あーと、です」。さすがの涌井先生もこの私の新たな手段には微笑んでくださった。最後には「先生、この会の別名は?」と質問形式を取ると「・・自己満足の会」、とあきれながらもノリも良く、いつもよりは和やかなムードで本番を終えることができた。それでも「この作品、どうしてもせんとあかんの?」の名ゼリフは出たけれど・・・(^^;。
しかし、この冬には「くるみ」の全幕が待っている。超コワイ涌井先生とまたお目にかかることになる。
急いで新たな作戦を練らねば・・。
お尻ごと足にするのよぉー
初めて涌井先生に鹿児島でレッスンをして頂いた時、のたまわれたなんとも奇妙な一言。
私はその時事務所で仕事をしていて、「?」な思いだった。
その直後、俗に言うところのおたけびが耳に飛び込んできた。「ギャー!!、」「ぐわっ!!」。
つまり断末魔の叫びのような声にならない、よって文章に出来ない「音」である。恐る恐るスタジオのドアを開けてみて、さっさと閉めた(^^;。
想像を絶する光景が視界に飛び込んだからだ。
涌井先生の印象は、恐れ多いけれども「かわいらしい」という感じだった。笑顔が飛び切りステキで、先生のそばに居るだけで、とっても穏やかな気持ちになれた。
なのに・・。飛び切りステキな笑顔はそのままで、心癒される声もそのままで、かなり強引に、それぞれの足をお尻ごと持ち上げていらっしゃる!!。あまりの痛さに、「ぎゃー ぐあー」と 喉の奥から「音」がする。当然のような涙の嵐・・。「これが、バレエ?」当時の驚きは何物にも変えがたい。
涌井先生いわくダンサーにお尻は必要ない。お尻が足になってしまえば、ウエストから下は全部足になる。そして 足の長いステキなバレエダンサーが出来上がる。
「なるほど・・」。
痛みに耐えながら教えられたことを信じて「あーと」は今まで頑張ってきた。舞台を見てくださった方に、「みんな足が長くてステキ」とお褒めの言葉を頂くまでになった。
涌井先生は本当に凄い人である。ワクイメソッドはドンドン人の体を変化させる。長い手足にちいさな顔 美しい背中。
全てを手に入れるために「あーと」の娘たちは、今日もひたすら涌井先生の教えに忠実に頑張っています。 どうぞ 貴方も一度体験してみてください。お尻を足にしてしまう ワクイメソッド。
バレエは痛いものなんです!!
涌井先生の一言一言は、私たちにとって絶対である。「バレエは痛いものだ」と言われたら痛いレッスンを志す、実に単純な集団です。
ワクイメソッドのお許しを頂いて、通常のレッスンを始めたころ、わが「あーと」のメンバーは、多分毎日が地獄のような日々だったに違いない。
大人も子供も涙を流しながらのバーレッスンである。それまでは、ごく普通のバーレッスンをしていたから、いきなりの変化に対応するのはとても大変だったと思う。
今では当然のようにその大変なバーレッスンをこなしているけれど・・。バレエの経験があって体験レッスンに見えた方は、まず最後まで持たない。「中国雑技団みたい」と言われることもしばしばである(おおせの通りである)。「何でバレエにブリッジがあるの?」と怒ったりする人もいる(引き上げるのに背筋はたいせつなのに・・)。
体験レッスンの申込みの数はかなりのものだけど、残念ながら入会にたどり着くのはほんの少し。上手くなりたいと思ったら頑張ってみたらいいのに・・・。本場大阪のワクイでは「大人から始めるバレエクラス」に数え切れないほどの人がいらっしゃるという。そして同じメニューを楽しんでこなしているらしい。
がんばれ!! 鹿児島県人!
やれば出来るんです!
レッスン中に何回も何回も先生のおっしゃる、ありがたいお言葉です。聞きなれた言葉だけれど、涌井先生がおっしゃると「あーと」のメンバーにとっては特別である。これもやっぱり「なるほど」で、出来ないと思っていると出来ないもので「出来る出来る」信じてやっていると出来るようになるのである。時々涌井先生は魔法使いじゃないかと思ってしまう。涌井先生の声が飛びその手に触れたとたん見る見るうちにその人が変わってしまうのだ。「あーと」では涌井先生の手のことを「魔法の手」と命名している。クラシックバレエは身体同様、精神の鍛錬も必要である。
「やれば出来るんです!!」という言葉を通じて自らの限界に挑戦することで精神も鍛えられていくのだろう。
やっぱり・・凄い。ワクイメソッド。
涌井先生は普通じゃない・・・
あ・・・スミマセン。そういう意味では無くて・・です。涌井先生は私ども常人には不可解な行動をおとりになるのです。ミエチャンをいきなりプレゼントし てくださったことでも、なんとなーくお分かりいただけると思うのです。その不可解さを実感したのは4年ほど前になります。「あーと」は枕崎でもお稽古を始 めたのです。で・・枕崎での公演を企画したのですが、稽古を始めたばかりでもあり、知名度も無く、「これはひとつ告知のためにストリートパフォーマンスでもしよう」ということになったのです。当時の寿屋枕崎店の店頭でチラシを片手にバレエを数曲披露する企画でした(それこそ不可解・・かもしれませんが)。こういう舞台を「あーと」ではジャックと命名しています。ジャック当日、なれない準備に全員がバタバタと私の怒号と戦いながら動いておりました。出演者の第一陣を現場に送っていったOさんが、帰ってくるや否や「涌井先生みたいな人が歩いてたような気がする・・」と、狐にでもつままれたような顔をしていたのです。最近頂いた電話で涌井先生は妙に細かくジャックのスケジュールをお尋ねになったことを思い出した私は、すぐさまOさんに言いました。「きっと涌井先生です。即効、捕獲してください。」。全ての仕込を終えて現地に行ってみるとソコにはニコニコと微笑む涌井先生が特等席(といっても沿道ですが)に陣取っていらっしゃいました。涌井先生は遠路枕崎まで、「あーと」のたったの20分のジャック本番を 応援するために飛行機とバスを乗り継いでお越しくださったのです。壽屋枕崎店を目指して。当日の出演者の驚きと感動と緊張はご想像いただけることでしょ う。本番が終わり、やっと落ち着きを取り戻した私は「先生、お荷物を」と申し上げました。「これひとつやから大丈夫(^^。」「へっ?」。「大阪のお稽古の途中でアン・ドゥ アン・ドゥ、って言いながら教室を出てここまで来たの(^^」。「・・・(^^;」。
これを封切りに涌井先生の常人には計り知れない恐るべき行動は現在も続いております(^^;。また次の機会にしたためます。お楽しみに・・・衝撃の出会い
これまた涌井先生が始めて鹿児島にお越しになったときのエピソードです。それは大人のクラスのレッスンでの出来事でした。「あーと」の大人のクラスは高校生くらいからバレエを始めた人ばかりです。初めてのホンモノのレッスンに期待と不安でいっぱいの面持ちでそれぞれがレッスンにのぞみました。子供のクラスを見学していたのである程度の痛さは覚悟していたと思います。しかしソコには予想をはるかに超える痛さが 待っておりました。それ以上に大変なことも・・。 開設間もなかった当時、会員も少なく、涌井先生の特別クラスも午前中からはじめて2クラス編成で行いま した。午前中の子供のクラスがおして、始まったのが予定より1時間遅れた午後2時。「大人は頭で理解することができるんだから・・」そうおっしゃって、と ても丁寧に説明を付け加えながらのレッスンになりました。一つ一つがなるほどと納得することばかりで、はじめは各人、夢中にお話に聞き入ったと思います。あまりにも無知すぎる受講生に実際に体を持ち上げたり、回したり、押したり・・という「実技」が始まりました。頭では理解できても何しろそれまでがなんちゃってバレエですから、「実技」となるとまず不可です。ところが、「やれば出来る」の涌井先生は「はい!!やって」「・・・といわれても」「やって!! やるの!!」。「出来ないから練習するんです!!」。つまり出来るまで許してくださらなかったのです。時間を追うごとに受講生の様子がおかしくなっていきました。すでに現世にいないのです。無意識のうちにただひたすら先生のレッスンについていっているという様子でした。私たちが声をかけてももう耳にも入っていない様子で当然口も利けません。そして、きつさのあまり涙があふれて止まらない子、朦朧とした目をして休憩室に転がり込んでくる子、腰が抜けてしまって立ち上がれない子・・・。そんな状態でも何とか涌井先生のこの日限りのレッスンを受けたい一心で背筋のメニュー終了まで全員生存(?)のままたどり着くことが出来ました。疲労と同じくらいの達成感を感じていたと思います。ところが・・です。「はい。あとひと頑張り。フェッテ300回」「へ・・へって!?」 フェッテという代物は当時の「あーと」のメンバーにとっては舞台で見るものでした。決して自分たちでするものではなかったのです。それでもフェッテもどき をただひたすら続けるしかありませんでした。「出来ないから練習するんです」という先生の言葉が頭の中でぐるぐる回っていたのでしょう。意識のない状態で すから回数など数えられるはずもありません。けれど、休むことなく止めることなく彼女たちは回り続けました。回ること2時間、やっと「そろそろ、終わってあげようかな」とおっしゃっていただけました。そして飛び切りにこやかな笑顔で「なかなか根性あるやん(^^」。時間はすでに夜の10時を過ぎていました。
何度計算しても、指を使って数えても8時間以上のレッスン時間です。しかも涌井先生も8時間あまり立ちっぱなしだったのです。素人同然の彼女たちを相手に・・です。涌井先生の凄さと「あーと」のメンバーの根性に鳥肌の立つ思いでした。
「これからも鹿児島にお越しいただきたい」、気持ちの中では思っていましたが、雲 の上の存在の涌井先生にそんなおこがましいことは言えませんでした。「あーと」はこの上なく貧乏なスタジオです。充分なレッスン料もお支払いすることが出 来ません。「あーと」に特別な才能のある逸材がいるわけでもありません。涌井先生から「川留さん。良かったら、私また来てもいいかしら?」そう言っていただけた時、不覚にも涙がこみ上げてきました。そうして現在に至ります。あまりにバレエに飢えた状況に先生はお越しくださるのだと思います。
どんなに感動する出会いであったとしても私を含めて「あーと」のメンバーも人間です。だからいけない事だとは分かっていても、時として「慣れ」が出てしまうことがあります。先生がいてくださることを当然のように思ってしまう事があるのです。「あーと」には先生に無理に書いていただいた3枚の色紙があります。「慣れ」が出てしまわないように、こみ上げてきた涙を忘れないように、私たちは時々その色紙を眺めます。涌井先生との出会いを知らない新しい「あーと」のメンバーにも、この先ずっと伝え続けていこうと思っています。涌井先生の魔法の手が「あーと」の原動力を生み出したことを。